生きる意味などないからこそ

10年後…明日には違うことを考えているかもしれないけど、今日まで生きてきた節目としてひとつ思想の記録を残そうと思います。

「人類はいずれ宇宙のバランスを調整する目的で作られた」
21世紀では、まだ宇宙が求める人類には恐らく程遠い。まだまだ道のりは長い。
僕ら個々が生きる意味なんてない。一人が生きようが、死のうが人類全体が崩れなければ、宇宙にとってはどちらでもよい。カナシーけれど。

僕は100%作用を持たないものは存在し得ないと思っている。いい・悪いは個人の判断に委ねるとして、時間・事象・物質は何かの調和を取る役割を必然、偶然に持っている。では、個人が存在していることにも意味があるはずである。でも個人が生きる大した意味はない。
この矛盾を解決するのが、「地球…恐らく人類は宇宙のバランスを調整するために作られた。そして個人は人類を形成する最小単位である」という考えだ。

推定45億年の地球はまだ成長過程であり宇宙が期待するレベルには達していない。 僕らは頑張って生きても100年程度、宇宙からみたら、存在しないような一瞬の時間の生き物。この一瞬一瞬の進化するための時間をつなぐ小さな点。
つまり今の時代を生きる僕らは、成長過程の人類であり、人類が生き、進化するための地球環境を維持する事ためだけに存在させられている。その仮説を軸にすると、高尚な「生きる意味」は個人にはないというのが僕なりの理解。

では、何を糧に、何を目的として生きたらよいのか。
よく聞く話としては、「幸せ」になること。僕もそれしかないと思う。この地球に生まれ死んでゆく、それしかない僕らに生きていく意味を求められたらそれは「幸せ」な人生を送ること以外に希望はないと思う。

「幸せ」とは何かを考えた時、それに一つの正解はない。「幸せ」の定義は人によって異なるから。不労所得で豪勢な暮らしをすること。質素な暮らし。健康な暮らし。傍を犠牲にしても自分がいい思いをすればよい、という考えすらあるだろう。人それぞれの考えを想像したらキリがない。

だから、僕のなりの幸せの定義を追い求めた結果、今思う「幸せ」の定義とは「感動」だ。苦楽が必ずある人生、苦でも楽でも、人のためにすること、自分のためにすること、どんな状況であっても必ずそこにあってほしいものが、僕には「感動」であると思う(ここでは感動の大きさはどうでもいい)。感動ができる生き物であることに誇りをもって、あと何回感動できる人生を作り、死んでゆくか、それを僕の「幸せ」の定義としたいと今は思っている。

後記
人類の科学力が発達した後、宇宙の惑星体系を補修したり、身発達な惑星の生物を侵略しようとする者を阻止したり、どのような形で、人類が宇宙のバランス調整に貢献するかを想像するには脳が追いつかないが、漠然とそう考えている。また、ではそもそも宇宙や銀河系が何のために存在してるのか、まで追い求めるには、まだ時間がかかりそう…。

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