判断の軸を作る

今やこれからについて考えるとき、世の中の経験者や自分の中には色んな意見が見方が有って、どれも正しく、どれも実践しなければならない事だと思えてきます。
でも人には時間という限界があるのは紛れもない事実です。その時に、これは実践する・これは実践すべきだろうけどやらない、という判断は基準をつくらないと選択できません。

どれもやろうとして気が狂いそうになる、どれからやろうかを考え過ぎて結局どれもやってない、これでは得られるものはなく、結局は無駄になってしまう。

なので、やる・やらない、を決める軸について考えました。

一つ目は「合理性」。
やる、やらないことによって、他に損を与える影響度。自分が得をする影響度を考えます。その答えで決めます。

具体的な例をあげると、朝に電車に間に合わなそうなので急いでいるとします。マンションに住んでいるとエレベーターで人と乗り合わせます。私は、ドアの横にあるボタンパネルの前に立つ事になりました。

さて、1階についた時に先にエレベーターから降りるか、開くボタンを押して、乗り合わせた他人を先に降ろすかを考えます。礼儀としては、自分がボタンの前にいるのだから、他人を先に降ろすことが選択できるでしょう。

でも、考えます。この礼儀というものを無視してさっさと自分が降りた場合に、相手はどの程度嫌な思い(損)をしますか?一日のスタートで礼儀のない奴に出会って不愉快だとその人が一日中気にすることはないでしょう。すると、自然と合理的なのは、今急いでいる自分が礼儀というものを捨てても先に降りる、そして相手もどちらが先に降りるかを迷わずに私の後に降りられるという事を思えば、「自分が先に降りる」というのは実に合理的な判断だと納得できます。自分の中には、礼儀のポリシーを守らなかったという念が出るかもしれません。でもそれに何の合理性があるのでしょうか。

二つ目は「感謝」。
全てを合理的な考えですることが正しいとは言えません。また、合理性で判断できない事柄もあります。この場合は「感謝の念に基づいたものなのか」という事に当てはめます。

例えば、お肉を食べ小さな残りが皿に残ったとしましょう。ご飯粒でもいいです。その時、それを食べるか食べないか。私の答えは「食べます」です。その小さなものを食べようが、食べまいが、栄養度合や金銭的な損は、限りなくゼロに近いものでしょう。むしろ、数秒という時間を消費します。でも食べるのは、食べ物(他の命や生産者の苦労)に対して「感謝の念」があるからです。

とても小さな事を事例にあげましたが、「合理的であるか」、「感謝の念に基づいたものか」を判断基準とすれば、自分が捨てていいもの、捨ててはならないもの、やるべき事、やらなくていい事、を判断しやすくなりました。

好きや嫌い、辛いや楽、という人が先天的に持っている感情に巻かれた時、決断力は鈍るものです。この時に、判断の軸がないと選択は困難です。したがっては、今回はこの2点を自分の軸として、今後を歩んでみることにします。

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